平成16年7月7日に熊野古道、鬼ケ城を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産に登録されました。

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その昔、桓武天皇(737〜806)の頃、この地に隠れて熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊多娥丸(たがまる)を、天皇の命を受けた坂上田村麻呂(751〜811)が征伐したという伝説が残っています。
その伝説に基づいて鬼の岩屋と呼ばれていましたが、後に鬼ケ城といわれるようになりました。

この物語を調べると大筋では一緒だが、書かれている書物によって若干違うようです。
2012年の1月5日発行 熊野鬼伝説 坂上田村麻呂 英雄譚の誕生  桐村 英一郎氏著では、「南紀熊野木ノ本浦鬼城物語(江戸後期のものと思われる)」の中の話を現代語に直して書かれています。
鬼ケ城が断崖絶壁であり、海からしか近づけない事が説明され、ここの鬼神が住んで郷民を悩ませていや。平城(へいぜい)天皇の頃、大同年間(806〜810)鈴鹿山の鬼神を退治した坂上田村麻呂将軍が、紀伊国の鬼の話を聞いて、討伐しようと二木島を経由して船で岩屋へ近づいた。
鬼の大将「金平鹿(こんへいか)」〈※海賊多娥丸(たがまる)では無いようです〉は、手下を集め、敵は観音の加護があるので我々の神通力が効かないかもしれないと食料を運び込んだ岩屋に閉じこもり、石の戸を閉めてじっとしていた。
坂上田村麻呂将軍が攻めあぐんでいるとき、沖の島の上に一人の童子がこつ然とあらわれ、弓矢を携えて将軍を手招きした。童子はまるで菩薩のようだった。かしこまる坂上田村麻呂将軍に童子は「私が舞を舞うから、軍勢も一緒に舞おう」と語り、船を並べた舞台の上で舞い遊んだ。その妙なる調べに、鬼の大将は何事かと石の戸を少し開けて顔を出した。
田村麻呂将軍はここぞとばかり、童子から授かった弓を引き、矢を放つと、矢は金平鹿の左眼に命中した。
岩屋の中から800人もの手下の鬼たちが飛び出してきたが、田村麻呂将軍からの千の矢先にことごとく倒れた。
千手観音の化身である童子は、光を放って飛び去った。童子があらわれた島を「魔見るか」島(魔見ヶ島(マミルガシマ・マブリカ))と呼ばれる訳はこの物語によってのようです。
熊野市のホームページの観光案内には、安時代桓武天皇の頃、将軍坂上田村麻呂はこの地に隠れ、海を荒らしまわって鬼と恐れられた海賊・多娥丸の征伐を命じられました。
近くの烏帽子山に大馬権現の化身の天女が現れ、鬼の隠れ家(現在の鬼ヶ城)を教えたが岩が厳しくそびえ、磯は波が激しくとても立ち寄れませんでした。
その時、沖の魔見ケ島に童子が現れ、舞い唄い、軍勢も加わって大騒ぎをしました。鬼神が油断をして岩戸を開く一瞬に、将軍が神通の矢を放ち、見事一矢でしとめました。童子は光を放って北の峰に飛び去ったので後を追って行くと、紫雲たなびき、芳香に満ちた洞窟(清滝の上流)があり、守仏の千手観音を納め安置しました。
とあります。
この鬼ケ城にまつわる話は、泊観音や大馬神社へと繋がり、この地域に数々残る「鬼」にまつわる話の一つとなっています。



鬼ケ城本城


鬼ケ城本城
室町時代(1523年頃)に有馬和泉守忠親が隠居城として山頂に築城したと言われています。
有馬氏はやがて新宮・堀内氏によって滅ぼされ(1558年)、堀内氏は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いまで当地を治めました。
山頂と熊野古道「松本峠」を結ぶハイキングコースには、3カ所の城を守るための堀割り(掘切)が今でも残っています。浅くなってはいますが空堀の跡を見ることも出来ます。


〜鬼ケ城に熱い思い日本新八景目指し猛運動〜
 鬼ケ城は、熊野市木本町字城山にあり、熊野灘に突き出た小さな岬の絶壁に存在する波蝕洞窟をいう。
この周辺には九鬼や八鬼山など鬼の付く地名や坂上田村麻呂の伝説があって、この洞窟は古くから「鬼の岩屋」と言われてきた。
また、岬の頂部には中世期の城跡が所在し、堀切りなどの遺構が見られ、「城山(じょやま)」という小字名も納得できる。
 指定は大正8(1919)年に成立した史蹟名勝天然紀念物保存法に基づくが、鬼ケ城の地質学上の価値を全国に紹介したのは脇水鉄五郎博士であった。
応用地質学の第一人者で、晩年は全国の天然記念物や名勝の調査を行われたらしい。
博士が初めて鬼ケ城を探勝したのは昭和4年4月で、翌5年5月の雑誌『史蹟名勝天然紀念物』に「天井の前端が著しく前に突出す鬼ケ城は波蝕洞窟の処女形を 有し五段の石階は数回に亙る土地の突然的隆起を示し」と、学問上貴重な天然記念物であることを力説した。
 また、その報告には、昭和2年に「日本新八景」の投票があって鬼ケ城の存在を知ったとも記されている。
そこで、当時の『紀南新聞』を見てみた。すると、鬼ケ城の記事がほぼ毎日掲載されていて、「鬼ケ城を何とか全国に宣伝したい」という地元の人たちの熱い思いが伝わってきた。

 大正14(1925)年、木本町会では「鬼ケ城宣伝の設備に関する建議」を採択し、昭和2年1月26日には「名所旧蹟を保存し景勝の地に適宜の施設」を作る木本保勝会が設置された。
そして、保勝会が中心となって、立札・案内人・売店の設置や道路改修などの計画を立て、宣伝歌「木本節」の募集も進められた。
 そんな矢先、大阪毎日新聞社主催で「日本新八景」選定の投票が行われることになった。
木本保勝会では「宣伝の好機」とし、積極的に投票に取り組んだ。
最初は町内1戸3枚ずつの投票を割り当てたが、全国の投票が進むと、それだけでは足らなくなった。
青年団・婦人会・会社などの大口投票、映画会入場料でのハガキ代獲得、町内班交替のハガキ書き、周辺の村々有志の投票依頼など、猛運動を展開した。
その結果、5月20日の締切には総数が約115万1千票にも達した。
当時の南牟婁郡全体の人口は5万6千人ほどで、その票数の多さがわかるが、「日本新八景」海岸の部には室戸岬が選ばれ、鬼ケ城は8位に入選した。
入選祝賀会が開催され、提灯行列も行われた。
また、三共キネマ会社による映画「鬼ケ城」も撮影された。
 一方、鬼ケ城の遊覧道路改修は、町民が「弁当と鍬や鶴ばしを持って」奉仕作業に出動した。
延人数約千人で、多い日には300人にも及んだという。
こうした木本町民の努力があって、ようやく鬼ケ城が広く知られようになり、昭和10年には天然紀念物及名勝に指定されたのである。
 ただ、現在よく利用される『地名辞典』「鬼ケ城」の項では、指定年月日が「昭和33年6月24日」となっている。
確かに、昭和33年に名称変更や別指定であった「獅子巖」との統合がなされているが、観光客にアピールするためにも、やはり本来の昭和10年指定を明記し、それに至る地元の熱い思いを語り伝えていく必要があると思う。

(県史編さんグループ 吉村利男)
------- このページの内容は「発見!三重の歴史」のページより引用しております。------


くまどこの特集「七里御浜写真集」には、明治から大正、昭和までの懐かしい七里御浜の写真がご覧いただけます。
その中には鬼ケ城の写真も多く出てきます。伊勢湾台風の大波が襲う鬼ケ城や船の輸送や漁業が木本漁港でおこなわれていた貴重な写真がご覧いただけます。

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